●こんなお話
素人俳優が本物の殺し屋と勘違いされて、命がけの“演技”をする羽目になる話。
●感想
ギャングの世界で巻き起こる勘違いと演技が交差するドタバタ劇。始まりは、ある殺し屋がギャングのボスを狙って銃を向けようとした瞬間、偶然にも周囲で爆発が起こり、殺し屋は重傷を負ってしまうという展開から。命拾いをしたボスは、重傷を負ったその殺し屋のもとを見舞うために病院を訪れるが、そこで自らが暗殺されかけていたことを知り、激怒。殺し屋を探し出すよう部下に命じる。
一方、物語の主人公である売れない役者は、エキストラとして現場に立ちながらも芝居に過剰な熱意を注いでしまい、周囲のスタッフから呆れられていた。そんな折、映画に出資していたギャングたちが、興行成績の不振に納得がいかず、現場に押しかけてくる。返金を求めて強引に詰め寄るギャングに対して、監督と、その姉である女優がとっさに「殺し屋のカールと知り合いだ」と口を滑らせてしまう。事態は急転し、言い逃れのできない状況となる。
そこで現場にいた主人公が偶然目に留まり、「カール役として主演を張る映画がある」とギャングに話を持ちかけられ、彼は“本物の殺し屋カール”としてふるまう羽目になる。主人公はこれを「大掛かりな撮影の一部」と思い込み、堂々とギャングたちの前で演技を続ける。演出の一環だと思い込んでいる主人公の大胆な言動行動に、ギャングたちは驚きつつも信じ込んでしまい、彼を仲間として受け入れる。
やがてイタリア系マフィアとの交渉の場にも通訳として同席し、銃撃戦にまで巻き込まれ、主人公は何も知らないまま立ち回ってしまう。派手なアクションも加わり、観客としては手に汗握るシーンが連続する。
ところが、主人公は次第に「なぜカメラが回っていないのか」「なぜラッシュが確認できないのか」と不審を抱くようになる。監督はあくまで撮影が進んでいるように見せかけるため、たまたま近くにいた別の映画撮影隊のカメラを奪い、偽の撮影を続けていくという無茶な手段を取り始める。
物語はさらに一転。ギャングの子分が、主人公の正体に気づいてしまい、親分を殺すよう脅迫してくる。役者である主人公は、演技の一環だと思ってギャングのボスを撃つ真似をするが、その銃が本物であったことに驚愕。命を狙われそうになるが、間一髪で解放され、女優から謝罪されて街から消えるように言われる。
再び映画の現場に戻った主人公は、役者としての日常を取り戻すが、ふとしたきっかけでギャングの現場で“撮影された”映像フィルムを見て、心を揺さぶられる。もう一度、自分の手で何かをやり遂げたいと思い直し、仲間のクルーを引き連れてギャングのもとへ戻っていく。
その頃、ギャングの構成員と女優の結婚式が行われていた。そこへ主人公が撮影隊を連れて現れ、偽の銃撃や映画の撮影を装ってギャングたちを混乱させ、巧みに逃走を図る。あくまで撮影だと信じ込ませることで、現場を乗り切ろうとするその様子には、思わずクスリとさせられる。
そして、重傷を負っていたギャングのボスが復帰し、本物の殺し屋カールを連れて現れる。ついに裏切りを企てていた子分の正体が暴かれ、彼の陰謀は白日のもとにさらされる。物語はおしまい。
この作品は、三谷幸喜のオリジナル版にあった“売れない役者の物語”という側面よりも、“嘘の撮影を信じ込ませてギャングを騙す”というサスペンス的な要素や中国映画らしいオーバーなリアクションのギャグに焦点を当てているように感じました。会話劇や取引の駆け引き、ギャングたちとの対峙など、緊張感のあるやりとりが続き、観ているこちらも登場人物たちと一緒にハラハラしてしまいます。
特に終盤の映画撮影を逆手に取ったギャングの欺き方は、無理がありながらもどこか現実味があり、そのギリギリのバランスが作品全体にユーモアと緊張感を生み出していました。主人公が演技と現実の境界を行き来しながら、ギャング相手に立ち回っていく姿には思わず応援したくなる魅力がありました。
☆☆☆
鑑賞日:2025/07/06 DVD
監督 | シン・ウェンション |
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脚本 | シン・ウェンション |
出演 | マー・リー |
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ウェイ・シャン | |
チェン・ミンハオ | |
アレン・アイ | |
ジョウ・ダーヨン | |
ホァン・ツァイルン |